江戸・大坂・京都の発達

農業生産の進展と諸産業の発達は各地で都市を繁栄させた。
なかでも全国市場の要である江戸・大坂・京都の三都は、当時の世界でも有数の大都市に成長した。
「将軍のお膝元」である江戸には、幕府の諸施設や全国の大名の屋敷(藩邸)をはじめ、旗本・御家人の屋敷が集中し、彼らの家臣や武家奉公人をふくめ、多数の武家人口が居住した。
また町人地には、武家の生活をささえるために、あらゆる種類の商人・手工業者日用(雇)らが集まり、江戸は日本最大の消費都市となった。

 大坂は「天下の台所」といわれ、西日本や全国の物資の集散地としてさかえた大商業都市であった。諸藩は蔵屋敷を大坂などにおいて、領内の年貢米や特産物である蔵物を蔵元・掛屋とよばれる商人を通じて販売し、貨幣の獲得につとめた。
また、全国の商人が大坂などに送る商品(納屋物)も活発に取引された。幕府はここに大坂城代や大坂町奉行をおいて、大坂や西日本の支配の要とした。

京都

 京都には古代以来、天皇家や公家が居住し、寺院や神社の本寺・本山が数多くあつまり、将軍家をふくめ、武士や宗教者、一部の御用職人らの権威をささえるために重要な役割をはたした。
また、京都には呉服屋をはじめとして大商人の本拠地が多く存在し、これと関連して西陣織や京染め、京焼などにみられるような高い技術を用いた手工業生産が発達した。
そして、幕府は重職である京都所司代をおき、朝廷・公家・寺社との関係の保持や畿内と周辺諸国の統轄にあたらせた。